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【心理学】悩みを紐解けば承認欲求に繋がるというのは本当か

こんにちは、あろはー。

怒りや悲しみの原点は「わかって欲しい」という承認欲だと言われますね。あらゆる心理学がそう説いているんじゃないかと思います。「あらゆる」とか言っちゃうと語弊があるかもしれない。違ったらすみません。詳しい方ご指摘くださるとうれしい。

仏教もそうですよね。ただ、それぞれアプローチの仕方が違うんだろうと思います。

最近以下の記事を読みました。

心が強い人が持つ「他人に反応しない」技術(東洋経済ONLINE)

むやみに「他人に反応しない」ためにはどうすればいいのかをテーマに書かれた記事です。ここに、アドラーは承認欲を否定し、ブッダは否定しないというくだりがあります。仏教では「ある」ものは「ある」と認めるのだと。

私はアドラー心理学も仏教の教えも敬愛しております(精通しているわけではない)が、アドラーが承認欲求を否定しているとするのは違うと思います。

承認欲は誰にでもある、それが人間のあらゆる悩みの原点である。というのはアドラーも説いている。だけど、承認欲は「虚」なのだ。「承認欲が満たされる」のはいつだって受動的で、決して能動的に「承認欲を満たす」ことはできない。常に相手次第なのだ。自分でどうしようもないから虚しいのだ。だから手放しなさい。手放した方が幸せだ。

と、言っていると思います。これはウィリアム・グラッサー博士が説く選択理論・現実療法も同じです。

上リンクの記事にもあるように、人間の悩みを紐解けば、たいていその源流に承認欲があるものです。私はそれを選択理論から学びましたが、本当にそうだなあと独りごつ機会は嫌と言うほどあります。悲しい時、腹の立つ時、寂しい時。「なぜだろう」と考えると、ほとんどすべて「わかって欲しい」という思いから端を発している事に気づくんです。「ほとんどすべて」と書いたのは、「すべて」と断定したら逆に胡散臭かろうと思って。でも実際のところ個人的には「すべて」です。今のところは。

個人的な話ですが、私は今、重要だと思っている人間関係が2つあります。

1つは、めちゃくちゃ腹の立つ人との関係。もう1つは、めちゃくちゃ癒してくれる人との関係。

めちゃんこ腹の立つ人がいるんですよ、職場に。

とにかく裏表がすごい。立場が上の人には全力で良い人となり、下とみなした人にはあからさまに悪態をつく。気分次第で理不尽に怒ったり無視したり。でも近くに立場が上の人がいると分かれば、下の人にも良い顔をして裏の顔を徹底的に隠蔽する。

ひどいっしょ? まじでサイコパスだと思ってます。というか心の中でサイコパスと呼んでます。

あ、もちろん私は彼女の後輩なので、扱いは下のカテゴリです。裏でゲシゲシやられてます。

腹が立つんですよ。ほんと。

だけどこの苛立ちも承認欲求なんですよね、考えてみれば。彼女に認められたいとは1ミクロンも思わないのだけど、周囲の人に彼女がいかにサイコパスかを分かってほしい。というか、彼女のせいで私がどんだけストレスフルかっつーのを分かってほしい。分かって欲しいのに分かってもらえない苛立ちなんですよね、これ。

相手がどれほど理不尽でも「関係ねーや、相手が勝手に怒ってるだけだし」と思えるなら腹も立たないはずなんですよ、本当なら。でもそこに「みんな分かってくれよー」が乗っかる事で悔しさやら悲しさやらが芽生える

わかっちゃいるんだけどね。なかなか払拭できないんだよなあ。そう、「分かってくれ」はかくも根深い。

余談ですが、彼女の言動には、その節々に気の弱さや自信の無さが見え隠れしている気がします。きっと彼女もまた「分かってくれ」の権化なんだと思う。「あたし弱くないもん、仕事できるもん」を必死で形にしようとしてる。そういう意味じゃ私と同類なわけで、サイコパスって言ってしまうのも忍びないのだけど。

一方、同じ職場にめちゃくちゃ癒してくれる人がいます。これまた女性の先輩。ニコニコしていて朗らかで、彼女の周りは絶えず笑い声に包まれていて。絵に描いたような優しい人です。

彼女の口から悪口や愚痴なんぞ聞いたことありません。いつも何気ない話でうふふーあははーってなってます。「分かってくれ」の欲求を全然感じない。

どうすればこんなふうになれるんだろう。

そんな憧れの眼差しを持って、日々観察させていただいております。

というわけで、1人目は私の承認欲求を浮き彫りにしてくれる存在として、2人目は承認欲求を削ぎ落とした好例として、私にとってかなりタイムリーで重要な繋がりだと思っています。

まるで対極にあるかのような2人と毎日顔を合わせるというのは、なんというか、日々禅問答しているみたいな感じでもあって。実際、禅問答したことないけども。ともあれ貴重な経験かもしれないなあ、なんて思う今日この頃です。

さて、そんなこんなで生まれる「悩み」というやつですが、ブッダはどう向き合えと説いているかというと、「まず認めよ」なのだそうで。

自分の悩みの本質は「承認欲」なのだということを認めなさいと。怒りや悲しみの正体が承認欲求なんだと分かれば、その時点でスンとするでしょと。「抜ける」でしょうと。

それでも沸き起こる感情に対してどう向き合えばいいかという具体例(具体的には「感情の言語化」と「身体感覚に意識を向ける」というような感じ)にも触れていて、その詳細は記事本文をお読みいただくとして。

たしかに、怒りを感じている時に「私は今怒っている」と言葉にしてみると、わずかにスンってなる気はします。身体感覚に集中すべく瞑想に熱中した時期もありました。(今でも時々瞑想はやります。)

しかし、このブッダ的スタンスで承認欲求を払拭しようとすると、私の場合かなり時間がかかる気がしました。アドラー的スタンスの方が、もうちょっと飲み込みやすいんですよね。私にとって。

承認欲は虚しい。いつ承認されるか分からないし、なんならずっと承認されないかもしれないわけで。つまり承認欲求を持ち続ける事は、当たるかどうか分からない宝くじを買い続けるようなもので、まあ宝くじは虚しいと言ってしまえば夢もヘチマもないけれど、承認欲は虚しいと言って夢が無くなるわけでなし。だから手放したらラクなんよね、というのがアドラー心理学や選択理論だと思うのだけど、私なんかはさらに一段ステージを下げて「だったら手放した方が得じゃん」などという損得感情に訴えて、承認欲求を払拭しようとしています。それが今の私にはしっくりくる

そのスタンスに比べると、損得感情とは無縁のところ(言語化や瞑想)で承認欲求を受け流そうとするブッダの教えはやっぱり高尚だよなあ、などと思ったりもするんですよね。こりゃ到達するには時間かかるぞーと。

ま、あくまで私個人の解釈なので、ベクトルがズレている部分もあるかもしれませんが。

そんなわけで。

悩みの根源は承認欲求です。承認欲求は厄介です。承認欲求は人を盲目にすると思います。分かってもらえるまで身動きがとれないという意味では、足かせでもあると思う。承認欲求を抱いたまま現状を打破するのはきっと恐ろしく難しいんだろうと。

あ、あと悩みの根源が承認欲求だと認めてなお「分かって欲しいと思って何が悪いの!」と開き直って、堂々巡りになる人をたまに見るけれど、「悪くないけど自分がしんどいでしょう…? だから手放した方が…」と言っても断固として聞き入れてもらえなかったりします。(←私の友人の話)

自分が変わることは「負け」だという価値観があるのかもしれない。分かるような気もします。

いつかは風のようにサラリと払拭したいもんです。

承認、ならぬ、精進ですな。がんばります。

それにしても、身体感覚を掘り下げて悩みを流すという瞑想の類は、やっぱりいつか辿り着きたい境地ではありますよね。それができたら単純にかっこいいよなあ。憧れ。(おわり)

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