怒りと悲しみの手放し方 – 「怒る・嘆く」は誰得なのか

こんにちは、あろはー。管理人まー、です。

先日友人とご飯を食べていたのだけれど、この友人、もうかれこれ数年ずっと同僚の愚痴を言い続けているのですよ。会うたびに言ってる。

何でもその同僚は、友人の直属の先輩。とにかく凄い気分屋で、機嫌のアップダウンに巻き込まれた周囲は大変なのだそう。

とかくこういう同僚とは距離を置くのが一番だと思います。直属の先輩だそうなので、業務上のやりとりは少なからずあると思うのだけど、その中でも関わりを最小限にとどめるのが良いかと。で、怒りやモヤモヤはすぐに手放すのがベストかと。

私は友人にそう言うのですね。すると友人はこうきます。「なぜ私が我慢しないといけないの?」と。

うーむ。距離を置くことや怒りを手放すことは、我慢なのか? うーむ。違うよな。違う気がするのだけどな。しかし何と説明すればいいのやら。

毎度ここらで返答に困って、むりやり別の話に変えてうやむやにしてしまうのですけどね。ふふふ。ごめん友よ。

いやしかし、怒りとは何ぞや。我慢とは何ぞや。うーむ。難しい問題です。

怒りを抱き続ける事に、どれほどの意味があるか

かく言う私も、パニック障害にかかる前までは、怒りっぽい人間でした。何かにつけてイライラ。特に醜形恐怖を患い始めた頃まではその傾向が如実で、社会不安の症状が出始めた頃からは喜怒哀楽が心の奥に閉じ込められて、その代わり政治経済に苛立ちを向けるようにもなったりして。

だけど、パニック障害になって、選択理論の本を読んだ時に、憑き物が落ちたみたいに考えが変わったのですよ。

ちなみに読んだ本はこれ。再三紹介してうっとおしくなってきたかと思いますが、念のため。

ウイリアム・グラッサー「グラッサー博士の選択理論―幸せな人間関係を築くために」(アチーブメント出版)

選択理論とは、あらゆる行動はすべて自分で選択しているという理論。ざっくり言うと。

巷で一般的な外的コントロール心理学とは真逆の、内的コントロール心理学の事でもあります。詳しくはまた別の機会に。

紹介しといて何ですが、この本、非常に分厚いのに加えて文章が非常にまどろっこしい。読んでたら耳から煙出てきます。疲れる。

なので、またいずれ別の選択理論の本も読んでみたいと思っています。分かりやすいのがあったら改めて紹介したいなと。

ともあれ、その本に書いてあったのですよ。

怒りや悲しみを抱き続けて、これまでに得した事はあったか。」そんなような事が。

え、いや、ないな、ないわ。

だったら、ただちに手放しなさい。そして現状を改善するためにより良い選択をしなさい。」そんなような事も。

え、あ、はい、ですよね。

素直にそう思いました。

選択理論とは何ぞやという話や、実際のカウンセリング例などが本文中にみっちり書かれていたので、自然と納得できたのかもしれません。

相手の事は棚の上に。何はともあれ怒りや悲しみを手放す

でも例えば、「相手の立場に思いを馳せてみましょう。相手にも色々あるんだと思って、怒りを抑えましょう」みたいな論調だったら、ちょ待てよ!ってなっていたかと思います。だったらこっちの立場と言い分も飲んでくれよ、と。

だけど選択理論はそうじゃなかった。

「相手が正しいか正しくないかはむしろどうでもいい。ともあれ自分の怒りや悲しみは手放すといい。だって抱えてたって相手が変わるわけでもないし。」そういう論理だった。

相手の言動が正しかろうが、正しくなかろうが、不躾だろうが、冷たかろうが、関係ないのです。たとえジャッジしたいと思ったとしても、そこに怒りや悲しみを添える必要はないのです。

怒りや悲しみを手放すべき理由はただ一つ。抱えていても何も良いことないからです。自分が損するだけだからです。

妙にスンッと腑に落ちました。

怒りや悲しみを手放す事は、相手の言動に屈する事じゃない。おかしいなと思って、それを伝えたいと思ったらそうすればいい。怒りや悲しみを添えなくても、それはできる。むしろ添えない方が冷静に伝えやすい。たしかにそう思う。

そして、選択理論はこうも言っています。

そもそも怒りや悲しみ自体で他人(家族も同じ)を変える事はできないと。怒りや悲しみに訴えて他人の言動を変えようというのは、これまでずっと世にはばかってきた外的コントロール心理学のやり方なのだと。

もしその外的コントロールがうまく機能していれば、人間関係に悩む人はほとんどいないはずだけれど、実際にはそうではない。それを表すグラフも本に載っていました。

「グラッサー博士の選択理論」第1章 27ページより

過去100年、いやもっと以前から人間の抱える悩みは変わっていないそうなのです。そう。それは主に、人間関係。

ふむ。他人を変えようとする事、また逆に、変わることを他人から強要される事。このやりとりって実に不毛なのかもしれません。

相手が変わるのをイライラしながら待ち続けるのは、誰得だろうか

よしわかった。だけどね、怒りや悲しみなんてそう簡単に手放せるものじゃないでしょ。

と、思うじゃないですか。私も思ったのですよ。しかしこれが意外と簡単でした。

怒りや悲しみにメリットが1ミクロンもないって事がつくづく腑に落ちたら、すぐに、スンッて気持ちの切り替えができました。あっさり。

そして、一度その爽快な味を知ってしまったが最後。やみつきになりました。手放したらこんなにも心が軽くなるのか、と。

他人は変えられない。変えられるのは自分の行動のみ」というのが選択理論の基本の考え方でもあります。

相手が変わってくれたら、抱えている怒りや悲しみはおさまるかもしれない。だけどいつ相手が変わるのかは分からない。もしかするとずっと変わらないかもしれない。

それでも相手が変わるのを、イライラしながら待ち続けるのか。怒りや悲しみをストレスに変えて、胃腸を痛めながら、頭痛薬を飲みながら、自律神経を乱しながら、あるいはパニック発作と戦いながら待ち続けるのか。これって一体誰得なのさ

そして思うんですよ。

怒りや悲しみを抱えてイライラトボトボ過ごす時間の中で、たぶん私たちはたくさんの素敵な景色を見逃しているのだろうなって。楽しくできるはずの時間を、自ら無下にしてしまっているのだろうなって。自分の人生を他人に委ねるのって、すごくもったいない事だなって。

とは言え、どんなに酷いことを言われたり、されたりしても(あ、暴力とかは論外ですよ?)すべて忘れて受け流すという事じゃないんです、これって。そんな生き仏みたいな事、いくらなんでも無理です。

だから、自分を尊敬してくれない人からは距離を置くに限ります。距離を置くと、怒りや悲しみを手放しやすくもなるし。完ぺきです。

もしかすると既にありふれた理論なのかもしれない

私の場合は選択理論の本に出会って、もう心眼を得たかのような、新しい世界が開けたかのような、斬新で新鮮な印象を受けたのだけど、よくよく考えたら、突き詰めたら言ってる事は同じだよなっていうのは既に世間に転がっていますよね。

例えば、「ムカつく人とは同じ土俵に上がらない」とか「子どもを罰する教育は良くない」とか「ダイバーシティを受け入れよう」とか「アンガーマネジメント」とか。

あと、仏の教えもそうかもしれない。「一切皆苦。すべては思い通りにならない。だから煩悩を捨てて、心を平和にしましょう。

そういうのを、新しい切り口で、あの手この手で納得させてくれたのが、私にとっては選択理論だったというわけで。

だからね、冒頭の友人の心にも、これが響いてくれたら嬉しいなあと。怒りや悲しみを手放すのは、相手に屈する事じゃない。我慢じゃない。怒りや悲しみを抱えている限り、むしろそっちの方が我慢しているんだぞってこと。

それがズシッと腑に落ちたら、人生がもっと今以上に楽しくなるんじゃないかなあと。私自身がそうだったから。

しかし、伝えるのがこれまた難しい。ここに「他人は変えられない」という選択理論の根本が翻ります。自分自身が変わりたいと思わない限り、なかなか、ね。

いつか腑に落ちてくれるといいなあ、と願いつつ。さて、お茶でも入れてDVDでも観ようかな。

今ふと、高畑勲監督の作品を思い出して。ゆるっと軽くて、いいのですよ。「ホーホケキョとなりの山田くん」とか。なんか高畑監督の作品って仏道をそこはかとなく感じるんだよなあ。(おわり)

ここに記載の治療法や対処法は、あくまで個人的見解に基づいています。
効果の有無や程度は保証できませんので、ふーん、そういう事もあるんだねー、ぐらいの感じでご理解いただけると幸いです。

ブログ管理人の自己紹介とパニック障害の経緯などは、コチラより。
→「ごあいさつ


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管理人まー

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↑Twitterやってます(@ok_daijobu) パニック障害がすっかり治ったアラフォー女です。 35歳の時、通勤電車内でパニック発作を発症。以来、不安、恐怖、息切れ、めまいなどの症状が日常的に現れるように。電車やバスに乗れない、スーパーのレジに並べないなどの『広場恐怖症』や、「またあの症状が出たらどうしよう」という『予期不安』に苛まれ、一時は仕事はおろか外出さえもままならない状態でした。その後少しずつ症状が改善していき、2年後にほぼ寛解。さらに1年後にはすっかり完治。 克服するためにいろいろ試した事や感じた事などを、このブログに綴っていこうと思います。 元商業ライター。現地方OL。

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