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【パニック障害】怒りと悲しみの手放し方 - 「怒る・嘆く」は誰得なのか

こんにちは、あろはー。管理人まー、です。

パニック障害を経験して何が一番変わっただろうかと考えた時、真っ先に思い浮かぶことがあります。それは「イライラしなくなった」という事。

パニック障害になる前は、もう本当に怒りっぽい性格だったんですよ。スーパーのレジで店員さんがモタモタしたとか、職場の後輩がなかなか仕事を覚えてくれないとか、そんな些細なことですぐにイライラ。家族間でもケンカが絶えず、いつもストレスの霧の中にいるような気分でした。

だからパニック障害になってまもなく、パニック発作の原因が主にストレスである事(1)を知った時は妙に納得すらしたものです。納得というより発見と言った方がいいかもしれません。

その頃はストレス状態が「日常」だったので、発作を起こしてようやく「ああ、これがストレスなのか」と気づいたわけです。そして強く思いました。「とにかくまず、このストレスをどうにかしなきゃ」と。

そんな時に、何気なく手に取った本がこれ。

(2) ウィリアム・グラッサー「グラッサー博士の選択理論」アチーブメント出版, 2000

「選択理論」を知ったおかげで、長年抱えていた怒りや悲しみを手放すことができました。人はいつだって変われるんだなあと、つくづく実感できた本。

「選択理論」の提唱者である精神科医、ウィリアム・グラッサーの著書。

選択理論とは、「あらゆる行動はすべて自分で選択している」という理論です。

その理論でいくと、「イライラし続ける」事を選択しているのもまた自分自身だということになります。

本の中にこのような問いかけがありました。

怒りや悲しみを抱き続けて、これまでに得した事はあったか。

考えてみれば、一つもありません。

だったらただちに手放しなさい。そして現状を改善するためにより良い選択をしなさい。

なるほど確かに。

素直にそう思いました。

ともすれば「イライラするのは私のせいじゃない。周りが私をイライラさせるんだ」なんて思っていたところだけれど、その時は「イライラを選択しているのも自分なのだ」という理論が、実にすんなり心に入ってきました。

本書に実際のカウンセリング例がいくつか掲載されていた事もあり、自分自身の状況とうまくリンクさせる事ができたからかもしれません。ともあれ、本との出会いってつくづくタイミングなのだなと思います。

 

相手の事はぜんぶ棚の上に

選択理論が例えば「相手の立場に思いを寄せてみましょう。相手にも色々ある事を理解して、自分の怒りを抑えましょう」という論調だったら、きっと腑に落ちなかっただろうと思います。「だったらこっちの立場と言い分を先に飲んでくれよ」と。

だけど選択理論はそうじゃありませんでした。

「相手が正しいか正しくないかはむしろどうでもいい。怒りや悲しみをずっと大事に抱えていても相手が変わるわけじゃない。だから手放すのだ。」そういう論理でした。

相手の言動が正しかろうが正しくなかろうが、不躾だろうが冷たかろうが、一切関係ないのです。怒りや悲しみを手放す事は、相手の言動に屈する事じゃありません。反論したいと思えばそうしたっていい。だけどそこに怒りや悲しみを添える必要はないのです。

怒りや悲しみを手放すべき理由はただ一つ。「抱えていても何も良いことがないから」。ただ自分が損するだけだからです。

そして、選択理論はこうも言っています。

そもそも怒りや悲しみ自体で他人(家族も含む)を変える事はできない。怒りや悲しみに訴えて他人の言動を変えようというのは、これまでずっと世にはばかってきた外的コントロール心理学のやり方なのだと。

もしその外的コントロールがうまく機能していれば、人間関係に悩む人はほとんどいないはずです。だけど実際はそうではありません。こんなグラフが載っていました。

「グラッサー博士の選択理論」第1章 27ページより

過去100年で科学技術は大いに進歩したけれど、人間関係の進歩はずっと横ばい。100年以上も前から人間は互いの関係について悩み続けてきたようです。

他人を変えようとする事、また他人から変化を強要される事。この外的コントロールに基づいたやりとりが、今もなお人間関係の悩みを生み出し続けているのでしょうね。

 

相手が変わるのをイライラして待ち続ける意味

他人は変えられない。変えられるのは自分の行動のみ」というのが選択理論の基本の考え方でもあります。

相手が変わってくれたら、今抱えている怒りや悲しみはおさまるかもしれない。だけどいつ相手が変わるのかは分からない。もしかするとずっと変わらないかもしれない。

それでも相手が変わるのをイライラしながら待ち続けるのか。怒りや悲しみをストレスに変えて、胃腸を痛めながら、頭痛薬を飲みながら、自律神経を乱しながら、あるいはパニック発作と戦いながら延々と待ち続けるのか。これって一体誰の得になるんだろう

そう考えたら、イライラするのが少しバカらしく思えました。そして、こんなふうにも感じました。

怒りや悲しみを抱えてイライラ過ごす時間の中で、たぶん私はたくさんの素敵な景色を見逃してきたのだろうな。楽しくできるはずの時間を、自ら無下にしてしまってきたのだろうな。自分の人生が他人の言動で左右されたら、なんだかすごくもったいないなって。

以来、イライラした時には態度で表すのではなく、冷静に言葉で伝えようと決めました。そうすれば相手は、少なくとも私の気持ちに配慮してくれるだろうと。だけどいざ伝えようという場面になると、言葉に詰まる事の方が圧倒的に多かったんです。結局のところ、私のイライラの原因のほとんどは言葉にするまでもなく些末でした。つまりイライラの原因は相手ではなく、むしろ自分の中にあったというわけです。

それに気付いた時、急に恥ずかしくなりました。むやみやたらにイライラする事は、自分の未熟さを大っぴらに宣伝していたようなものかもしれない。いやはや。猛省です。

 

もしかすると既にありふれた理論なのかもしれない

私は選択理論に出会ったことで、心眼を得たかのような新しい世界が開けたかのような、斬新で新鮮な体験をしたのだけど、よくよく考えてみると、他にも同じような理論は世間に転がっていますよね。

例えば、「アドラー心理学」とか「賞罰を与える教育は良くない」とか「アンガーマネジメント」とか。

あと仏の教えもそうかもしれない。「一切皆苦。すべては思い通りにならない。だから煩悩を捨てて、心を平和にしましょう。

人間はずっと大昔から人間関係に悩み続けてきたわけで、それなら解決策だって既にたくさん提案されていてもおかしくありません。私にとってそれは選択理論でしたが、どの理論も根っこの部分はおおよそ同じなのじゃないかと思います。

ともあれ選択理論を取り入れたことで、私のストレスはずいぶん減りました。今はイライラすること自体ほとんど無くなりましたし。心理学的なアプローチでストレスケアをするのも、案外効果があるもんだなあと思っています。

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